デビューの経緯
当時はアイドル女優の先駆けといわれた葉山レイコが1988年に『処女宮 うぶ毛のヴィーナス』でデビュー、1990年にはそのデビュー作は3万本売れたとされる星野ひかるの『処女宮 第2章-天使の濡れた丘-』が発売。AV業界はまさにアイドル女優ブーム全盛期だった。
そんななか、加山のデビュー年である1989年にはAV業界のみならず世間に【巨乳ブーム】を巻き起こしたきっかけとなるHカップの松坂季実子『でっか〜いの、めっけ!』が発売、その後、新作を出すたびに1万本前後を売り上げるヒットを生み出した。
加山の場合、松坂のヒットを受けて同じHカップの巨乳女優として好待遇のデビューかといったらそうでもなかったとか。
「あの〜、とにかく当時は胸なんかなくていいから美少女が一番とされていた時代でした。私自身は自分のことを”まぁ体型はポッチャリだけど、そこそこでしょ”ってくらいの意識でいたんですよ。
当時はまだカプセルエージェンシーではなく別の事務所でしたが、その事務所の私の扱いがすっごく適当で”撮ってあげるんだからね”って姿勢に”なんだろう、この違和感?”と、感じていました(笑)」
デビュー作のタイトルはクリスタル映像の『パンチングボール』。
これが事務所の予想を反して売れたという。
「私のWikipediaではデビュー当時の作品名は前後しているみたいですが、私の記憶ではデビュー作は『パンチングボール』です。その前に週刊誌や専門誌でヌードグラビアも掲載されたと思います。この作品がどれくらい売れたかは知りませんが『パンチングボール』発売以降の事務所の対応が手のひら返しになったんです。だって、同時期に事務所で温めてた美少女系女優を遥かに上回って私の作品が売れたらしくて。
でも今にして思えば、最初からお姫様扱いじゃなかったからこそ、その後も地に足ついていられたので、よかったです」
もともとは中学生の頃からタレント活動で人前に出て何かやることに憧れていたという。
「中学生の時にタレント養成所に入り、当時、流行ってた『毎度おさわがせします』の脚本家が書いたドラマのチョイ役くらいは出たりしてて。高校進学は堀越高校とかに行きたかったんですよ。でも親から経済的な理由で“私立はダメ”と言われ、なぜか都立の農業高校に進学したんです。
それで卒業後はアメリカの農業の仕事をしようと思い、高校卒業後は英会話の専門学校に通いました。“AVデビューしないか”とスカウトされたのは、その学校に通っていた時でした」
英会話専門学校に通いながら新宿で夜のバイトをしていた時、新宿アルタ横にある果物屋の前でスカウト。
そのままズバリと「脱ぐ、AVのお仕事です」と説明された。
「当時は人前に出て何かやりたかったし、人と違う何かをやりたいって気持ちが強かったんです。しかもなんかそのスカウトの人が気が弱そうで怖い感じが一切なかったんですね。それで“脱ぐ、AVの仕事です”って言われても“なんだろう、怖いけど楽しそう!”みたいに感じたんです。
その前に少し芸能界にカジってたこともあってか、当時の芸能界の何年も寝かせられてレコードデビューみたいな鈍い動きに辟易していたのかもしれない。その時はとにかく事務所はここでマネージャーはこの人でってポンポン決まっていくスピード感もテンションが上がったんですよね」
デビュー作以降の2つの選択肢
「月1本くらいの撮影ペースでのんびりやるか、毎日撮影みたいな感じでやるのか、どっちがいい? って聞かれたんです。だから毎日仕事したいって言ったら、一気にバーっとオファーが来て、デビューして一年くらいでAVは終わった感じで短命でしたね、私は」
当時は松坂季実子や飯島愛との仕事も数多くこなした。
「どうせ自分なんて」「みんなみたく可愛くないし」と劣等感の塊だった。
「地上波の特番で芸能人にイタズラの仕掛け人みたいな感じで松坂季実子ちゃんと共演したり、深夜番組の『ギルガメッシュないと』とかはレギュラーで出ていましたね。
飯島愛ちゃんはすごく優しく共演者思いで、スタッフ受けもよかった。サバサバして、スタッフが「はい脱いでー」みたいなのにもハイハイって感じ。なによりカメラ写りが抜群に綺麗!
私は愛ちゃんを見るにつけ「あんな風に要領よくこなせない」とコンプレックスを抱いてました。私はもっさりしてたし“可愛い子みたいにグイグイ前にいけない”って思ってましたね」
「だから若い頃より今の方が男ウケはいいんです! ついに私のモテ期到来です!(笑)」と加山。
18歳からハタチまでAVに出ながら地上波バラエティ番組にも数多く出演し、ストリップにも挑戦した。そして22歳に妊娠したことをキッカケに一旦は一切の活動を休止する。
後編ではストリップやSMクラブで女王様として活動した当時の話や、再びAV業界に返り咲き今に至るまでの話に迫る。